わたしが書いた記事に対する好意的な反応と批判的な反応についてお答えをしてみます
自分なりにちゃんとした記事を書くと、ちゃんとした方が読者登録、ツイートしてくださり、その方の読者さんはまたちゃんとした方で、という好循環があるような気がしております。
— 松村正樹☆彡 (@masakimatsumura) 2018年10月12日
- わたしが書いた記事に対する好意的な反応と批判的な反応についてお答えをしてみます
- 「思想の自由市場」論について
- じゃあ結局、正義ってどうやって決まるのか?決めるのか?
- まだわかりにくいという声があるので、ここまでのまとめを書きます
- じゃあ結局、正義ってどうやって決まるのか?決めるのか?
自分なりに頑張って書いた記事で、読者登録していただくと嬉しいですね!
この記事を読んでいただいた方お2人が読者登録してくださいました。ありがたいです(追記:その後たぶんこのタイミングで、もうお1人読者登録いただきました。ありがとうございます!)。
はてなブックマークには、コメントが書き込めます
はてなブックマークにはコメントを書き込めますので、ブックマーク(「しおり」)としての使い方よりも気軽なコメント機能として(SNS的に)使われている方も多くいらっしゃいます。
多くの方にコメントをいただきました。その中には、批判的なコメントもありますが、みなさん頭いいなと。
キズナアイKKKの記事は10月10日に書いております。その中に内部リンクとして埋め込んだ10月4日の記事(マジョリティ男性こそが、フェミニズムを勉強するといいんじゃないか?再びキズナアイ騒動に寄せて)へのコメントには、気持ち悪い!差別主義者ですか?などと書かれていましたが、別に頭悪いとは思わんです。
あとキズナアイKKKの記事へのコメントにあります、タイトル詐欺じゃねーか。法哲学どこいった?よくわからない(ほんとは詳しい)論旨の組み立て方が下手なのでは?「思想の自由市場」論を知らないのか?にまとめてお答えします。
まとめてと言いましたが、論旨の組み立て方が下手は、そのとおりだと答えるしかないです。わたしもそう思います。精進します。
まとめて答えるポイントは、「思想の自由市場論」です。ただ、ちょっと時間ないので、また書きますね。
このあとに追記していきます。平成30年10月13日午前8時。
「思想の自由市場」論について
論旨の組み立て方がおかしいというご批判は、甘んじてお受けするとして、わたしがキズナアイKKKの記事で書いていることは次のようなことでした。
自由とは何か?
自由とは何か?という問いかけをしています。
なんでもやっちゃっていい、それが自由だ!という立場で、どうやって「キズナアイにKKKの服を着せること」その他のヘイトスピーチをダメだって理論づけることができる?と書いています。
最後の一文は、さすがにあなたも排外主義的なヘイトスピーチはダメだって思ってるでしょ?という問いかけであり、そうであるならば、なんでもやっちゃっていい、それが自由だ!という立場とどうやって整合性をとってるの?と書いていました。
これに対する反論として、「思想の自由市場」論を知らないのか?という反論が数名の方から寄せられました。
表現の自由とヘイトスピーチ
ここで、「ヘイトスピーチ 表現の自由」でGoogle検索をなさってみてください。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/15-2/ichikawa.pdf
表現の自由とヘイトスピーチ 市川正人先生の論考が一番わかりやすいと思います。一読いただくと、やっぱりお前(まつむら)が間違ってるじゃん!とも読めるとも思いますが……というところでまた時間がなくなりましたので、次回に続きます。
平成30年10月14日午前8時40分。
市川先生の論文をどう読むか?「思想の自由市場」論は、どういう話なのか?
市川先生の論文を引用する
まず「思想の自由市場」論は、まず2ページ目の最後の段落に出てきますね。ここは定義として読めると思います。
この表現の自由の保障は,国家の干渉がなく,すべての思想が市場に登場することを認めれば,思想の自由競争の結果,人格の実現や民主主義過程の維持保全にとってよい結果が達成されうるという考え方(「思想の自由市場」論)に立っている。
3ページにもあります。ここには伏線があります。しかし、まずはサラッとお読みください。
「思想の自由市場」論は,市民の自律的判断能力に対する信頼に依拠したものであり,こうした立場からすれば,国家が表現内容の真偽,価値の有無・程度を判断することは表現の自由に対する重大な脅威と理解されることになる。
で、問題の7ページ目です。見出しは、ヘイトスピーチと「思想の自由市場」論
以上の叙述は,ヘイトスピーチについても「思想の自由市場」論が妥当するということを前提としているが,そのことに対しては批判がある。
んん???市川先生は、ヘイトスピーチについても「思想の自由市場」論が妥当すると書かれていますね!!!
「思想の自由市場」論は、どういう話なのか?
今、何を書いているかというと、わたしの記事に対して「思想の自由市場」論をもって反論となさっている方がいらっしゃいます。わたしは、ヘイトスピーチはダメって書いてますからね。
そして市川先生は、ヘイトスピーチについても「思想の自由市場」論が妥当すると明確に書かれています。
ただここで、市川先生の「思想の自由市場」論は、わたしの考え方に近いよという一見アクロバテッィクなお話をします。
もう一度、市川先生の論文に戻ります。9ページ目の「終わりに」
以上の私の立場からすれば,人種差別撤廃条約 4 条 a b が挙げているものをそのまま禁止・処罰するような法律は日本国憲法の下では認められないが,他方,ブランデンバーグ判決の基準を満たすような人種集団に対する暴力行為の煽動や,侮辱を自己目的とするような特定の民族に対する特にひどい侮辱的表現を処罰するような,きわめて限定的なヘイトスピーチ処罰法ならば,規定の文言が明確であるかぎり,日本国憲法の下でも許容される可能性があることになる。しかし,憲法上の許容性と立法することの政策的適否とはまた別の問題である。後者についても,ヘイトスピーチ処罰法の差別解消にとっての効果23),表現の自由の保障に与える影響を考慮に入れて,慎重に検討すべきである。
市川先生のこの論文は、何について書かれているかというと、 国がヘイトスピーチを禁止するような法律をつくることの是非なのです。
国が禁止するべきじゃないという話です。
このときに「思想の自由市場」論が出てきます。市川先生は「わたしは市民の自律的判断能力に対する信頼を持っています!」とおっしゃっているんです(伏線の回収)。
わかりますか?伝わるかな?
わたしの記事に対して「思想の自由市場」論をもって反論となさった方は、ヘイトスピーチも自由だろ?とおっしゃっているのですが(ですよね?)、市川先生はそんなことはおっしゃっていません。
ヘイトスピーチが自由かどうかは、国が禁止すべきじゃない、市民の自律的判断能力を信頼するべきとおっしゃっているんです。市川先生がヘイトスピーチが自由なわけないやろ!とお考えであっても、このことと矛盾しないのわかります?
これに対して、反論が届きました(ありがとうございます!)
http://h.hatena.ne.jp/rag_en/81810884426147599
わたしとらぐさんとでは自由の定義が異なりますね。わたしは「1つに決まる」「自分の規範に従う」のが自由と思っているんです。らぐさんは、選べる選択肢がある状態を自由と把握されているのではないかな?と思いました。
https://www.mm-nankanoffice2.com/entry/2018/10/10/004847
市川先生が、ヘイトスピーチについても「思想の自由市場」論が妥当すると書かれていることはわたしも指摘していますよ~。
「市民の自律的判断能力」自律とはなにか?
わたしはキズナアイKKKの記事の中で、自由の定義を「自由とは、自分がたてた規範に従うこと」と書いています。この意味が分かりにくいというコメントもありました。
これは市川先生がおっしゃる自律的判断能力ということと一緒です。
われわれは自律的判断能力があるから、個人として尊重されるのです。というか、自律的判断能力ある人のことを個人といいます(追記:福祉主義からするとこの定義おかしいんじゃ?という批判はありえます。「個人」概念をもっと包括的に考えるべきなのか?もっと場合分けをして考えるべきなのか?まだ勉強不足です)。
そして、日本国憲法は、
国民に自由と生きる権利を保障するけど国民、かくあるべし!みたいな具体的なモデル像を提示しません。
出典:自民の改憲漫画が、あまりにも酷い-サブカル 語る。
国が決めてやる必要はないんです。われわれは自律的判断能力がある個人だからです。その意味で最近読んでスゴイ!と思ったブログ記事を紹介してひとまず終わりたいと思います。
ここの指摘スゴイ!そのとおりだ! / この国の憲法は国民に自由と生きる権利を保障するけど国民、かくあるべし!みたいな具体的なモデル像を提示しません。 / “自民の改憲漫画を読んだ率直な感想「あぁ、この人たちほんとに中身空っぽだ」…” https://t.co/P6RaYZG1eP
— 松村正樹☆彡 (@masakimatsumura) 2018年10月12日
自分の言葉で語られているのがスゴイ。この表現は読んだことがなかったです。
平成30年10月14日24時
じゃあ結局、正義ってどうやって決まるのか?決めるのか?
これを最後に書きます。いったんここでストップします。
平成30年10月15日10時。
まだわかりにくいという声があるので、ここまでのまとめを書きます
いいですか?
まず、前提として、みなさんに把握していただきたいことがあります。
萌え絵をゾーニング(時と場所を制限)せよ!キズナアイもゾーニングせよ!こういう法律をつくることは無理です。
市川先生は、日本国憲法の下では、ヘイトスピーチを禁止する法律すらつくれないとおっしゃっているんですよ。
この法律(萌え絵をゾーニングせよ!キズナアイをゾーニングせよ!)をつくることには、多くの法律家も反対すると思います。これは反対することに筋が通ります。
萌え絵をゾーニングせよ!キズナアイをゾーニングせよ!こういう法律をつくることはそもそも無理なんです。
ここまでが前提です。
もちろんこの論点が正しいかどうかは、検討を要することではありますが。
だから問題はそこではないのです。
法律で禁止することは無理なんだからといって、法律がないのだからなんでもかんでもオッケーというわけではないでしょうということなんです。
これはわたしの考えなのですが、いいや、萌え絵の表紙もオッケーだし、キズナアイもオッケーでしょ!という考えもありうると思います。
じゃあ結局、正義ってどうやって決まるのか?決めるのか?
これを最後に書きます。いったんここでストップします。
平成30年10月16日23時。