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「行政主体には表現の自由(人権)は認められない」を説明してみる。

どこから語ろうか。

憲法って条文がありますよね。ざっくりわけると

ということになります。

法の支配についての説明

ここで憲法典(ここでは明文の条文という意味)を解釈するときに、「個人の尊重」という観点から読んでね(解釈してね)っていうのが憲法学の大前提というか基礎中の基礎となってます。

ここさらっと読んでしまうところなのですが、憲法典よりもさらに上位の概念がある(ここでは「個人の尊重」)。その上位の概念でもって憲法典を解釈することができる。このことを「法の支配」といいます(この法の支配の説明はあんまり一般的ではないかもです)。

法の支配って超重要概念なのでもう少しだけ。対立概念は形式的法治主義です。「悪法も法なり」「条文に書いてあることが正義だ」が形式的法治主義です。これとは違い、条文の外に条文解釈を決定する根拠(正義)をもとめることができるって考えが法の支配です。

具体的なご質問への回答

いただいたご質問は「行政主体に表現の自由(人権)が認められないってどこに書いてあるんですか?」でした。

行政権に関する規定は、憲法典の統治機構にその条文があります。

ここで「法の支配」の観点から統治機構の条文を解釈する(「個人の尊重」という観点から読み込む)と、統治機構の条文の「制限規範性」というキーワードが導かれます。

第65条 行政権は、内閣に属する。

制限規範性っていうキーワードから読むと、内閣には行政権しか与えねえって読みます。

第66条3項 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。

内閣についてのみの条文じゃなくて、行政権の行使についての条文と読むと、行政権の行使は法令等の縛りがある範囲でしかできねえ、と読みます。

質問は「行政主体に表現の自由(人権)が認められないってどこに書いてあるんですか?」 これの答えとして、上記2つの条文をあげておきます。 内閣についての条文なのですが、行政権の行使についての条文として読むんだということです。

まとめると行政権を執行する部署には原則として行政を執行する権限しか与えられず、その行政権を執行する権限は法令等(法律からもっと下位の規範に任せられることもあります)によって縛られる。

法令等に書いてあることしかできねえ。もっと正確にいうとそこに書いてあると解釈できることしかできねえ。これイコール行政主体には表現の自由なんてもんは認められていないという意味なんです。

法の支配の観点からは条文の存在は、形式的理由づけです。

その存在は指摘しないといけないし、導かれる命題(法規範といいます)からあんまり遊離してもいけないのですが 実質的理由づけのほうが大事で、憲法ではそれが個人の尊重になります。

教科書にそんなこと書いてないぞってコメントは受け付けません笑

行政主体には人権は認められないよって国のシステムについての命題を憲法を使って論証しています。

憲法典の解釈として、条文の存在を指摘して、その解釈が「個人の尊重」目線になってればOKということで。

解釈ってふつうに自由なんです。

あとこれは、じぶんのイメージなのですが、憲法典の統治機構の条文は、システムの束です。

「個人」を尊重するために、「システム」がある。

このときに「システム」の側に人権を認める必要があるのかな? こういう感じで考えてます。

行政主体には人権は認められないよという命題は、学問上は、公法人の人権享有主体性の原則否定「説」みたいな分類がされるのですが、エライ先生が言ってるから正しいとか賛成者が多いから正しいとかじゃなくて、

あなたはどう思うんですか?ということが不断に問われ続けるものなんです。

決めちゃっていいし、解釈しちゃっていいし、ただホントにそうか?って問われ続けるもの。

今の「わたしの」回答は以上です。