今日は、南関町消防団の出初式に行ってきました。わたしの後ろには、朝早くから陣取っておられるカメラマンさん達がいらっしゃいます。まだギャラリーは少ないようですね。
ウーウー(サイレン) キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! テンションがあがりますね~。
南関町の消防団員の皆さんです。
キンキンキン。消防車もやってきました。
たくさんきたー。
ちょっとしたセレモニーがありつつ、その間、準備をなさっています。
そして……
川向かいのお宅タイヘンだ~。絶対あのブルーシートじゃしのげないでしょ~。
次に、このボールを落とす競技は、タイムアタックになっております。
今日は、南関町消防団の出初め式に行ってきました~。お正月の風物詩。 pic.twitter.com/7VWAHlIUYX
— 松村正樹@はてなフレンズ (@masakimatsumura) 2018年1月13日
そして最後に……只今準備中……
放水合戦です!
冷たそうです~。
応援の人も落とされます~。
明治15年ポンプ龍吐水(名前カコイイ)を購入し南関町竜瀬川 (川巾15m位)の両岸に二組に別れてポンプによる標的落しを始めるようになり、その競技に勝った組は敗れた組にポンプで水をかけるようになりそれが南関町消防団が恒例によって実施する放水合戦の起源となったのだそうですよ。
南関町消防団の沿革
平成14年1月12日、放水合戦120周年を記念して編集された、南関町消防団編「消防の伝統<放水合戦120周年>」より
南関町消防団の歴史は旧く明治時代の町火消から消防組以来消防精神と果敢な活動をもって百余年に亘り地域住民の生命と財産の安全を守り続けてきた。
当明治時代消防を関手永の火消組と称していた。関手永は1632年寛永9年細川公時代に設立されたと云われる。関手永とは南関郷 (旧八ヶ町村) を指すもので、その下各地区に護身会又は一致会が設置されていた。明治2年熊本藩主細川昭邦は版籍を奉還し藩知事に任命され、このとき玉名郡は手永制度を廃して上下二区とし区に区長を置き、村に戸長をおいた。
江戸時代末期の南関町総庄屋江上安太氏が毎年一回定期的に消防点検を実施していたとのことでありその当時より当町の消防団は相当の勢力をもっていたようである。明治15年ポンプ龍吐水を購入し南関町竜瀬川 (川巾15m位)の両岸に二組に別れてポンプによる標的落しを始めるようになり、その競技に勝った組は敗れた組にポンプで水をかけるようになりそれが南関町消防団が恒例によって実施する有名な放水合戦の起源となった。明治22年4月1日市町村制度が実施され、各村を合併して南関町として発足したものである。明治時代に於ける消防団はすべて警察の厳重な身許調査が行われ団員はこれを誇りとして勤務年数も20年以上にのぼる者が相当多かったという。当時の消防の給与額は年に1円、火災に一度出動する度に5銭の日当を受けていたとのことである。当時の団員数は約40名位であった。
明治27年〜28年に組頭大佐古徳次氏より平井英道氏が組頭となり陣頭指揮にあたったと云われている。
大正時代には南関町公設消防組と改名し野田憲次郎氏が組頭となる。大正時代においては明治時代と大差なく地区単位に自衛消防の組織をそのまま踏襲したが昭和の始め定員を80名に増やし年齢も40才までと制限したようである。
この時の組頭河野一平氏となり昭和7年大佐古守雄氏が組頭となった。そして時代も非常時局の緊迫に伴った消防組も国防体制の強力化に伴い強力な警防組織を設けるため警防団令が公布されこれによって明治以来の消防組も新たに南関町消防団として昭和14年4月1日発足した。
この時の警防団長古賀国雄氏となり郷土防衛のため力を発揮したが終戦となり 昭和23年消防法の改正により警察の指揮下を全く離れ消防団として発足、大佐古友弘氏が団長に昭和25年福島儀平氏、昭和27年に矢野辰喜氏がそれぞれ就任した。
昭和24年に県下最初の日本消防協会表彰旗を授与した。昭和30年4月町村合併が実現新たに「南関町消防団」が発足した。