ヴォル。ヴォル。ヴォル。
ヴォルテールよ。
お前どうしちゃったんだよ。
おれのツイートに反応してくれてありがとうな。
表現の自由戦士の自由って「なんでもあり」じゃないですか。だからヘイトスピーチやら森の発言やらを擁護するはめになる。まず自らの自由概念に疑いの目を向けようよ。話はそれからだ。 https://t.co/TBkQePqKpU
— 松村正樹☆彡初心者Pythoner (@masakimatsumura) 2021年2月4日
(Twitterをなさっていない方に説明すると、次のツイートは、わたしのツイートにネット論客の青識亜論氏が反応したという流れです。)
(青識氏がツイートにかかげている命題は、 ヴォルテール - Wikipedia さんが残されたとされているものだそうです。)
(ただ信じがたいことですが青識氏にヴォルテールが転生して、ヴォルテール本人がツイートをしているようにも見えます。語りかけてみます。)
「私は君の言うことに反対だ」と「しかし君がそれを言う権利は守る」は両立するし、それぞれまったく別の問題だって話、私は何百年続ければよろしいですか。 https://t.co/nHe7SXl9fd
— 青識亜論(せいしき・あろん) (@BlauerSeelowe) 2021年2月9日
おい。ヴォルテールよ。
よく反応してくれたな。おれはお前を待っていたんだよ。とても届かないと思っていたよ。
おい。ヴォルテール。
お前のその数百年前の命題が、現代の日本でそのまま通用すると思っているのか?
おい、ヴォルテール。
お前の命題をあたまっから信じ込み、「自由」とはなんでもありなんだと考える子らがたくさんいるぞ。
おい、ヴォルテール。
けど、お前のかわりに、訂正しておくからな。安心してくれ。
わたしは「自由」についてツイートしていますが……。なんでみんな憲法学上の言葉をつかってくるんですか???
「表現の自由」が必要最小限の制約しか許されないのは、対国家(公権力)との関係の話だからです。
国家権力(公権力)は、「表現の自由」を必要最小限でしか制約できないという意味ですよ。
「思想の自由市場」論については、下で言及します。
わたしは憲法の議論をしていない
表現の自由戦士の自由って「なんでもあり」じゃないですか。だからヘイトスピーチやら森の発言やらを擁護するはめになる。まず自らの自由概念に疑いの目を向けようよ。話はそれからだ。 https://t.co/TBkQePqKpU
— 松村正樹☆彡初心者Pythoner (@masakimatsumura) 2021年2月4日
注意深く読んでいただくと、わたしは、表現の自由戦士の自由、自らの自由概念という表現をしています。
これは憲法上の概念である「表現の自由」と区別するために、このように書いています。
このツイートに対して「私は君の言うことに反対だ」と「しかし君がそれを言う権利は守る」は両立するし、それぞれまったく別の問題だ、という命題から演繹的に物事を考え、この命題をそのまま憲法の表現の自由の条文解釈に援用している方から寄せられた批判として次のものがあります。
以下反論します。
憲法の議論
憲法の解釈原理
憲法の解釈原理として、1番最初にでてくるのは「個人の尊重」という原理かと思います。
憲法学的になんかわからんことを考えるときには、ここに戻るといいんじゃないでしょうか?
個人の尊重という原理から、日本国民には、いわゆるヘイトスピーチ(差別扇動表現)をする権利があるという結論が導き出せると思いますか?
これはムリですね。
憲法の特質・人権の法的性質
そもそも憲法は、国家機関に対する授権規範であり制限規範です。とくに国家機関に対する制限規範であることが重要です。
また、憲法上の人権は基本的に「権力」との関係での権利です。ざっくばらんにいうと、自由権とくに表現の自由は、国にほっといてくれという権利です。
国から憲法でもって、いわゆるヘイトスピーチ(差別扇動表現)をする権利を認めてもらっている(授権されている)と解釈している人が多すぎる!
これは、ヴォルテールの命題を盲目的に信じ込み、そこから演繹的に物事を考えるからこのような結論になるのですよ。
以上、憲法の解釈原理からと、そもそもの憲法論からと両面で、日本国民にいわゆるヘイトスピーチ(差別扇動表現)をする権利があるという立論はムリムリという結論になります。
「思想の自由市場」論について
いわゆるヘイトスピーチ(差別扇動表現)にも「思想の自由市場」論が該当するという議論をどこかで聞いたことがある方もいらっしゃるかと思います。
これは、ヘイトスピーチが自由かどうかは、国が禁止すべきじゃない、市民の自律的判断能力を信頼するべきという議論です。
野放しに、発言をみとめるということじゃないですよ。
ヘイトスピーチをする権利を与えるという議論でもありませんね。
わたしは自由の再定義をもとめる
表現の自由戦士の自由って「なんでもあり」じゃないですか。だからヘイトスピーチやら森の発言やらを擁護するはめになる。まず自らの自由概念に疑いの目を向けようよ。話はそれからだ。 https://t.co/TBkQePqKpU
— 松村正樹☆彡初心者Pythoner (@masakimatsumura) 2021年2月4日
このツイートのあと、「自由とはなんでもありだ」と主張する方数名と、Twitter上でやりとりをしています。異なる思想を持つもの(わたし)との対話を望む勇気ある方々だったと思います。
その中に、さすがに自ら積極的にいわゆるヘイトスピーチ(差別扇動表現)をするという方はいらっしゃらなかったと記憶します。
そこでわたしが「ほらね、自由ってなんでもありじゃないでしょ?なんで自らの自由を自ら制限してるの?」と問いかけると、頭のいい方ほど矛盾に陥るわけです。
ご自身は自由をなんでもありと思い込んでいるからですね。
その矛盾を解消するために、いわゆるヘイトスピーチ(差別扇動表現)をする権利はある(それを行使しないだけだ)という理論が必要となるのですが、少なくとも日本国憲法をその根拠とすることが難しいのは先に述べたとおりです。
ヴォルテールさんの命題を直接、いわゆるヘイトスピーチ(差別扇動表現)をする権利があるとする理論の根拠としますか?
さすがにヴォルテールさんを救いたい。そんなことは言ってないでしょ。
ではどのようにすれば、この矛盾から解放されるのか?
結論からいうと、自由の定義を塗り替えればよいのですよ。
1回ヴォルテールの呪い(比喩表現)を解きますね。
自由とは、自分で規範をつくってそれに従うことなんです。
これを自律といいます。
この自律という概念にはどうしても社会との関わりという観点が入ってきます。
さっきの「思想の自由市場」論でも、自律という言葉が出てきますね。
もっと簡単にいうと「なんでもあり」の逆。「1つに決まること」これが自由なんです。
自由をなんでもありとするから自縄自縛となります。その点、わたしの定義は万能です。
いわゆるヘイトスピーチ(差別扇動表現)をあえてやろうとは思わない。
それがあなたの規範であり、それがあなたの自由なんです。
では次に、エッチなコンテンツの表現について考えてみましょう。
エッチな表現ができるならばなんでもよいとはならんでしょ?
自分で規範をつくりあげていくはずです。
その過程もわたしがいう自由なんです。
そして表現する。受け取った方が「ふーんエッチじゃん」と思う。それを作者に伝える。また創作頑張ろうと思う。素晴らしいことじゃないですか?
あなた表現者なんですよね?
あなたの場合は、ご自身の規範がそのまま作品としてたちあらわれます。
そのときあなたのその子どものような作品が社会からどのように受け入れられるのかということは常に考えるべきことですよね?
え?あなた表現者なの?
表現者じゃないの?
あなたが今まで信じていた表現の自由はなんなの?
それを根拠にあなたがSNSで巻き散らかしてたあの暴言は?
あれがあなたの自由の発露なの?
わたしは、自由の再定義をもとめる進撃の巨人。
それでは地鳴らしを発動します(このブログ記事をとおしてあなたの脳内に繋がります)。